2時46分。
オレは、新宿の高野ビルクリニックにいた。
友人の病院だが、疲労回復の通称・ニンニク注射を受けに行っていた。
この建物も相当古い。
5年前のこの日は相当揺れただろうなと思いながらの点滴。
「僕は沖縄生まれ、東日本の大震災で被災された方も気の毒だけど、終戦直前の沖縄の悲惨さも後世に伝えて行きたいんですよ。どちらかと言うと、東日本の震災は新しいのかもしれないけど、沖縄の悲惨さも忘れないで欲しいですよ。戦争のせいで何万人もなくなっているんですからね」と、院長は言っていたが、沖縄人の思いなんだろうな。
年寄りのオレだけど、生まれたのは戦後で、関東で生活しているから確かに薄れている。
院長に言葉を肝に銘じておきます。
で、5年前、オレは、溜池の全日空ホテルのロビーにいた。
東京スカイツリーの小説「634「を書いてた片岡弘さんと待ち合わせだった。
数週間前に、大手広告代理店「電通」に勤務していた友人に紹介され、この日待ち合わせをしたのだ。
待ち合わせは午後3時。
少し早く着いたからコーヒーショップには入らずに、ロビーにいたのだ。
東京五輪や万博を手がけ「電通のライオン」との異名を持つ片岡さんから話しが聞ける楽しみがあった。
そこで、突然の大揺れ。
日本が潰れてしまうと感じた瞬間だったね。
2度目の揺れも大きかった。
オレがいた東京は、電車は止まり、帰宅できない難民が生まれた。
オレもそのひとり。
片岡さんには会えずに、友人の会社がある銀座に徒歩で向かった。
後で聞いた話だけど、その時間に、片岡さんも全日空ホテルにいたという。
そして、ホテル側に、帰宅困難難民を「宴会場」に収容するように交渉したそうだ。
助かった人も多かったと思う。
大勢の人が道に溢れていた。
ビルの窓ガラスが割れて、散乱していた場所もあったが、みんなどこかに向かって歩いていた。
オレは銀座方面。
赤坂方面も渋谷方面の人もいた。
ここから恐怖の4時間が始まる。
友人の会社のエレベーターは停まっていた。
会社は6階。
階段で上がった。
エレベーターホールに出て、会社に連絡を取ったら誰もいない。
帰ろうと思ったら、入ったドアが、ホール側からは開かない仕組みだった。
電源も無い。
掛け捲った携帯の充電はすでに赤信号。
金曜日の夜だっただけに、月曜日の朝までここで過ごさなきゃいけないという恐怖に駆られた。
かなりの知り合いにメールをしていたが、返事は無い。
待つこと4時間。
下の階で素っ頓狂な声が聞こえた。
銀座のホステスさんだった。
「お店が営業しないから、キャンセルね」と、いう話し声が聞こえた。
階下にある「わび庵」という着物屋に断りに来ていた女性がいたのだ。
エレベーターの隙間から「助けて」と大声で叫んだ。
「何処ですか。何処にいますか」と男性の声。
6回まで駆け上がってくれて、ドアが開いたときはホッとしたね。
で、ビルの外にでられたときに、友人が経営する銀座のクラブのマネージャーが、信号の向こうから走ってきていた。
「どうしたんですか。会長が会社に行って来いと言うもんですから。会長はお店にいます」と。
あと少し待っていれば、助け出されたのかも知れないが、ホステスの声と「わび庵」の従業員に助けられた。
休業を決めた店で飲んで、近くの居酒屋で時間潰し。
この重大事にお店は超満員だったことを覚えているね。
数日前から、友人が予約していたから店に入れた奇跡だった。
それから2時間。店を出たオレを待っていたのは、電車が動いていない現実だった。
徒歩で20分。
芝公園の増上寺前のマンションに住む友人の家に泊めてもらうことにした。
途中のコンビニをのぞいたが、食べ物、飲み物はゼロ。
ノートなどの文房具ぐらいしか棚に残っていなかったね。
あれから5年経ったのに復興が遅れている。
一番の問題は、福島原発の破壊事故。
まだ何も解決していないのに、別の地区では再稼動。
信じられない。
福島原発の事故処理だけだって一日30億円が掛かっていると聞いた。
ただしいかどうかは分からないが、解決する(?)、放射能が無くなる(?)までに、まだ30年は掛かるという。
やはり、原発は止めなきゃ。
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